遊歩百景

書き物をします。

未遂

 死のうと思った。それ以外に、自らを救う術が、どうしても思い当たらなかったのだ。常に纏綿する諸要素の、その重みに対して、骨をミシミシ云わせて、筋肉を怒張させて、そうして汚い汗と唾液とを垂れ流し、睥睨する人々から嘲られ疎まれし続けるくらいならば、それほど長く苦しむくらいであれば、自ら進んで一思いに蹴りをつける方が、どれだけ良いか知れない。それは実にのっぴきならない急務なのだ。これ以上、長くは辛抱できない。

 

 次々とあの手この手と間断なく襲いくる責苦からは、少なくとも生きてある限りは逃れられない。私は死者も社会の構造の中で、あるいは人の思考や意識の中で存在し続けると考えるので、自殺は根本的な、つまりは存在自体がもともと無かったことになり雲散霧消するような、理想的で完全な解決であるとは思わないが、それにしても、我々の取りうる手段の中では、最も合理的と云って差し支えないものではあるまいか。搾取や矛盾を前提として蠢動する世界は、繊弱な私には、余りに苛烈である。そこに居続ければそれだけ、生傷が増えるばかりだ。

 

 とはいえ、やはり死ぬことは怖いものだ(畢竟、世の中の人だって、この死の恐怖のために、自分自身をまんまと人質に取られて、脅かされて、そうやって無理に生きているんじゃないかしら)。刃物はあまりに痛そうだし、投身は頭蓋やら内臓やら筋肉脂肪やらがグシャグシャになって凄惨だし、首吊りは便が垂れて汚らしい。

 

 結局私が選んだのは、入水であった。私は風呂が大層好きなので、家にある風呂釜に沈み込んで死ねば、そう酷い最期でもないように思えたのだ。

 

 そして、某日午前2時、私は電気も付けずに、着衣のままズブズブ湯船に入った。肌にぴったりと重量感をもって張り付く衣類の感触は、いささか奇妙であったが、同時にそれらは多量の空気も孕んでいたため、四肢に風船を取り付けているかのように、その部分がプッカリと軽く、案外と良い気持ちであった。胎児のような格好で天井を見上げ、安らいだ嘆息をついた。これならば楽に、眠るようにいけるのではないかと思った。実に浅はかである。

 ややあって、バスタブの壁に沿わせた背中をさらに沈め、頭を後頭部から徐々に埋めていくと、やがて耳の後ろまで水位が到達した。鼻と口までは、あと幾ばくもない。あと少しで、水が穴に流入し始め、呼吸を阻害し始めよう。骨を伝ってか、やけにくぐもった水の音が、確実な質量感を覚えさせる。

 その音がさらに近づき、実際に耳朶を水が濡らし出すと、ここにきて急激に呼吸が荒げだした。ジリジリと頭を下へ下へ沈めるにつれて、呼吸はさらに激しくなり、気息奄々、そこから先に進めなくなってしまった。思えば、そもそも私は水に顔を付けるのが苦手で、泳ぎも出来ないし、いつかシュノーケリングで、エアバッグを巻いて船から海に飛び込んだ時でさえ、同じように過呼吸になったものだ。しかも、今回は死のうと思ってやっている訳だから、尚更身体からは本能的な拒否反応が出ており、これまでにない生々しい、死の克明な恐怖を覚えた。全く、想像を超えたような、まざまざとした酷薄な怯懦であった。まだ吸えているはずの酸素を、足らぬ足らぬと貪り、喘ぎ、喘ぎ、喘ぎ、やがて物音を聞きつけた家の者が押し入り、私の身体は引き上げられた。未遂にも満たないような、滑稽な結末であった。私には、生きることも死ぬこともままならないのだと、改めて衷心から思い、そのあまりの情けなさ、心細さを呪い、さめざめと流涕した。


 しかし、私は本当に死ぬつもりたったのだろうか。思えば、水が苦手なことも、音を聞きつけて家の者が助けに来ることも、そして結局死ねないことも、すべて織り込み済みの、打算に基づいた茶番なのではなかったか。幼稚な猿芝居ではなかったか。

 ただ、甘えているのではないか。その疑念は疾うから、私の感情に囁き掛けてきている。他でもない、私自身によって。幼少の頃から、ほとんど常に、私のうちに私自身を冷観し続ける存在を認識していた。それは泣く時も、怒る時も、笑う時も、「ワザ、ワザ」と、すりからしの笑みを顔に貼りつけて、厭らしく吐きつけてくるのだ。記憶が新しいうちにと、この文章を認めるこの最中にも、下卑た声が盛んに響いている。況や、死のうだなんて、そんな、噴飯ものの、分不相応な行いなど、奴は垂涎を禁じ得ないであろう。だって、そんな度胸は明らかに無いのだから。家の者に助けてもらって、慰めてもらって、良い気持ちになるためだけの、大根芝居に過ぎないのだから。さらに言えば、こんな下手な文章を書き進めること自体、誰かに同情を求めるだけの、可哀想なんて思ってもらいたいだけの、浅ましく、醜い、浅薄な媚態に過ぎない。こうして、辛い辛いとわざと人に聞こえるように喚いて、御涙頂戴、それによってただ怠惰であるだけの自分自身を、その罪過を肯定せんと目論んでいるに過ぎない。犬が我々の言語を喋れないように、私には社会一般の生活をする能力はなく、したがって、惰眠を貪り、大飯を喰らい、ぼうっとするだけのこの現状は、致し方ないことなのだと、どうしようもないことなのだと主張したいのだ。既に桜の木に緑の葉が芽吹き出し、その美観を損なっていることを、その盛りを見逃したことを知った、どうしようもない絶望を味わい続けていることを、あに憐むべき悲劇にあらずやと、喧伝し、吹聴し、そうして、美しい腕に柔らかく抱擁され、あたたかな胸に倚れ、畳まれし拍動を聴く日を、安らかなその想像を、夢寐に結んでは転転しているのだ。可哀想どころか、いいご身分である。


 さあ、もうよし給え。凡人には、この滑稽を文学にできぬ。芸術にならぬ。飯の種にもなりはせぬ。筆を断ち、堅実な、仕事を為さい。売り物にさえならない恥を重ねたところで、つまらないばかりじゃないか。このままでは、それこそ生きていかれない。大赤字というものだ。大損害というものだ。道楽商売ができるほどの蓄えは、君にも、君の親にも、ないではないか。そう、親だよ、いつまでも細腕にすがりついていてはいけないよ。親には、少しでも楽をさせなくちゃ義理が立たない。なにしろ、産んで、育ててくれた訳だからね。もう十分遊んだじゃないか。そろそろお開きにしよう。清貧に、働いて、義理堅く生きることが、何より一番の美徳じゃないか--。


 エッ、ナニ、選んで生まれた訳じゃない?こんな世の中だと知っていれば、初めから腹から転がり出たりしなかった?その意志なくして一方的に生を受けて、責任だ義理だと要求するのは不当である?それにナニ、芸術は人類の最高の営為?創作に従事せず、美に奉仕せず、ただ来る日もくる日も機械人形よろしくバタバタ働くようなのは、嘘である?人間として下等である?またある意味では創作は復讐?かつ間接的な自殺?そしてそれもまた復讐?自分を虐げ続けた世界へ、創って、死んで、報復したい?これが自分の偽りのないところの本心である?


 アハアハアハアハアハアハ。莫迦を云っちゃあいけないよ。それは君の本心なんかじゃない。自己欺瞞というものだ。自己暗示というものだ。虚栄心というものだ。露悪的になって、あちらこちらへと敵対心をもって、そうして冷酷な人間になったつもりでいれば、自分を潺湲たる無量大数の自己意識の濁流から救い上げて、形取って、その陰にかくれて安心していられると、心のどこかでそう考えて、保身に走っているだけさ。

 

 いいかい、君はそんな悪の大人物ではない。その実はもっともっとずっと矮小で、卑屈で、臆病で、怠慢で、無学で、凡庸で、粗略で、不貞で、幼稚で、迂遠で、浮薄で、浅慮な人間である。君はさもそれを十分自覚しているように言って、嘆いてみせて、役者みたいな虚構性を作り出して、そうやって本当のところではそれを芯から認めないようにしているのさ。

 

 君がしたことも、その結果も、そしてこの世の中も、すべてどこまでも本当なのだよ。どんなに嫌で、憎くて、遣る瀬なくても、このままここで生きていくしかないのだ。混ぜっ返して嘘にしてトンズラなんて、そんなことは無理ってものさ。仮に死んだって、無かったことにはならないって、君さっき言ってたじゃない。拙劣な回避行動は、何にもならないのだよ。何も守れちゃいないんだよ。オヤ、だからもう筆をとるのはお止しよ。貧相な頭で、唸って唸って、言葉を弄して、紙を汚したりしたってどうにも成りようがないんだって。いくら飾り立てたって、結局正体は一緒であって、自ずから収斂していくのだから。何度でも言って聞かせてあげるよ。

 

 ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。ワザ。

 

R3.4.2