遊歩百景

書き物をします。

肉慾讃歌

 我々は、肉体への奉仕なしでは生存できない。肉体とは、(便宜上)我々の精神と対置される、動物の部分である。我々は、我々の肉体が動物であることを認識しながらも、動物的にふるまうことを厭う。それを、恥と感じたり、浅ましいと思ったりするのだ。さればこそ、我々は飯を食うにしても、綺麗に盛り付け、食器を操って散らかさないように食べるし、排泄も隠れてこっそり行う(少なくとも、大っぴらにそれらを行うことを大衆の是としない)のである。

 こういった感性は人類に特有のものであるが、聖書は人類がそうした感性を持った原因を、アダムとイヴが禁じられた樹の実を食したこととしている。そしてその樹の実は、生命の樹の実と対置し、知恵の語をもって形容された。実際、キリスト教徒でなくとも、そのような感性を失しているように見える生物(人であっても)を、理性的であるとみなすことは稀である。よしんばその他の点において理性的なものの匂いを感受したとしても、それが欠点を十分補填するほどに善である、つまり(全体的に見て)理性的な個体であると判断する可能性は少ないだろう。動物への、「未開人」への差別意識をいまいちど思い出されたい。そしてこの感性に依拠することで、人類は自らと凡百の動物とを峻別し、世界に跋扈することを正当化している。またそれら感性は、精神や、魂とも深く関連付けられる。


 例にあげた食事や排泄であったり、その他睡眠、運動、セックスなどといった活動が、肉体への奉仕(つまり動物的本能への奉仕)であることに異論のある者はそうおるまい。これらを怠れば、漸々と身体に異常をきたしたり、ともすれば種全体の危険を誘発する可能性さえあるのだ。動物としての本能が、そうしたリスクを感知し、慾求として我々自身に働きかけるのである。

 さて、一方で、理性や精神、魂といった人間の「占有物」は、なにを求めるのか。ひとつには、芸術である。バタイユの言うように、これは生命維持に必要なものではない、「遊び」から派生したものである。動物は退屈しのぎに遊ぶことはあるかもしれないが、それ自体価値があるものとして目的としたり、称揚したりはしない。この点にこそ、もっとも動物と人間との差異があらわれる。

 芸術のみならず、精神は思想を重宝する。論理的な推論、合理的な判断、理性的な営み、これらを織りなす能力、また闊達に敷衍させた産物は、個人のみならず社会の前提でもある。これらがあればこそ、秩序や道徳を俎上にのせ得るのだから。

 個人レベルに話を戻すと、例えば、何を好き、嫌うか、そしてそれに基づいた取捨選択はほとんど各人のアイデンティティそのもの、換言するならば精神のありかたそのものの如く語られる。起臥する部屋のレイアウトやインテリアを好みに合わせて調整するような営みは、いわば精神への給仕であり、これには、芸術を好むことに通底するものがある。これが、きわめて人間的な営為のひとつであることに、異論があるだろうか。また、ポリシーとして、これをするとか、しないとか、そういったこともまた人格にとって重要であるとされる。趣向だけでなく、道徳も、むろん好例である。


 しかし、そもそも、我々が我々そのものであるとさえ認識するような、主体的意識や意志、思想、理性などが、我々自身に想像し得るもっとも具体的かつ鮮明な精神のかたちであるとして、それらは精神自身に定位するのか、あるいは肉体に宿るのか、どちらであろう。精神が精神自身の働きによって存在するとすれば、それはあらゆる関係を排除した、つまり空間や時間さえ前提としない、充溢した存在である。しかし、アンセルムスなど中世の学者に言わせれば、我々人間はあくまで神の被造物に過ぎず、存在を与えられねば存在できない存在である。自己自身で完結する存在は、神の他にあり得ないのだ。とすれば、我々の精神は、何かに依拠することで初めて存在できることになる。断っておくが、私は背神的な人間であり、その対象が神であるなどと言うつもりは毛頭ない。ただ、その発想と、構図には同意できる。残念ながら。どういうことか。当然じゃないかと、噴飯する者もあろう。が、言う。我々の精神は、肉体との関係を享受するかたちでしか、存在できないのである。


 関係とは、極めて尊大で、猥褻なものである。レヴィナスも語るように、存在は常に我々に纏繞し、安心して眠るような余裕を与えることはなく、間断無く我々を脅かし続ける。そして存在のあるところには、必然的に空間が生まれ、必然的に時間が流れ、そうしてそのなかに、必然的に関係が生じる。否応もなく、片時も休まず、まぐわい続ける状況を、尊大、猥褻と呼ばずして、どう呼ぼう。のしかかる重さに、粘りつく肌膚に、酒くさい息に、獣じみた蠕動に、床に擦れ破ける背中の皮の痛みに、耐えながら、たえながら、そうして存在は続いていくのだ。

 両者の関係のあり方について、もう少し具に述べよう。精神と肉体とは、デカルトが言うような二項対立的に対置できるものではなく、互いに融和した、流動的かつ不可分のものである。したがって、なおさら、精神が精神のみで、人間的に思考して活動しているという認識は、誤謬である。水と油という俚諺があるが、両者を実験器具に入れればなるほどそれらは確かに完全に混じり合わないものの、試験管から別の容器に移しかえようとすれば、必ず一方だけでなくもう一方も流れ込んでしまうし、よく攪拌すれば、油の膜が細分化され、限りなく溶け合ったに近いくらいの見た目になる。肉体と精神とも、あまりに一体となって見えることもあるが、やはり完全に離別したり、混ざることはなく、肉体と精神は関係の中で互いに点在したり、動いたり、分裂している他の部分とくっついて大きくなったり、他の群れに吸われたりと、常に一定でない動きをする。我々の感情が思いもかけずに転々したり、同時にあれこれさまざまなことを感じたり考えたりするのは、そのためである。


 畢竟、何かを好き、嫌う気持ちは、ものを喰べたり排泄したりするのと同様に、我々の肉体の慾求、肉慾への奉仕でしかない。簡単な例から始めよう。何を得手とし、不得手とするかといった認識は、肉体の性質の差異の認識の派生でしかあり得ない。あるものは勉学に優れ、あるものは駆け足に長け、あるものは料理の腕前におぼえがあるといった事象は、単に、偶然、肉体がそのように作られていたというだけの話である。背丈や、顔立ち、黒子の位置や数などのように、予め肉体に設計されていたことの差異と、なんら変わらない。そして、概して、自分の得意なことは、周囲から褒められたり、自信の種子になったりして、憎からず思うものであり、翻って不得意なことは、なるべく忌避しようとするものである。これは、明らかに、肉体の性質に起因し育まれた好悪である。


 問題はこういった明確な根拠がない好悪である。唄が下手な人間が音楽を愛する(唄が得意だからでなく)ように、論理的でなく、感覚的に何かを好いたり、嫌ったりすることは普通だし、かえってその理由がないことが、自分自身の不可侵的な、言うなれば魂のありよう、つまりアイデンティティである証左にほかならないと考え、なおのことそれら感覚を大切にしようとするし、また世間の人々も多くがそのことを推奨、礼賛したりする(下手の横好きなどと言われることもあるが、少なくともそうした発言は概して非道徳的として大衆の公然の支持を得難い)。それでこそ人間ーそれも高潔なーと考えたりするのだ。

 だが、これらもまた、単に肉体の仕様によるものだとしか、考えられないのである。もし、我々の精神が、肉体との関係なしに、つまり肉体の助けなしに存在し、ア・プリオリに、対象を直観することができたなら、あるいはそれは魂の問題かもしれない。しかし、前述の通り我々の精神はそもそも存在を始めるためには、肉体が必要になるから、純粋な直観など不可能である。なにせ、我々は耳なり、目なり、鼻なり、肉体に備わった神経器官を遠さないと何ものも知覚できないのだ。そのため、純粋に精神のみで何かを好いたり嫌ったりなど、できないのである。となると、やはり我々の好悪には、必ず肉体の性質の作用が及ぶことになり、したがって、言語化された論理によって理由づけができないからといって、それが極限まで純化された「私」、つまり精神、魂などと呼ばれるものの純粋な慾求であるとは言えない。必ず、それらは下卑た獣の穢れが滲みている。生まれついた肉体の性質が欲するままにしか判断できない。なので、それらはやはり無意識に行われる肉慾への奉仕に過ぎないのである。


 では、理性とは、精神とは何であろうか。肉慾を諌め制限する働きがそうであると、人は言うかもしれない。しかし、その静止の可否さえ、その実、ひとえに肉体の能力に依存しているではないか。肉体の備品たる自制能力が脆弱な精神が、果然、欲に負け、殺めたり、犯したり、盗んだりするだけの話ではあるまいか。

 それに平和や秩序を希求する気持ちも、法を重んじる心も、労働に勤しむ誠実さも、ひたむきな勤勉さも、超然たる崇高な理念などではなく、単に自らが(あるいは種全体が)危険に晒される確率を減衰させたいという、肉慾の実現の一形態である。あるいは、傍若無人に肉慾を満たす、動物や、より動物に近い人間を羨む気持ちを抑えるための、それが叶わない自分を正当化するための、精神の窮余の一策である。


 それでは、そもそも精神とは一体なにものであろうか。常に肉体の存在という活動に引き連れられ、隷属して、七転八倒するこのものは、なんだというのか。人間の最も根幹であるものと思い込みながらも、その実、肉体にしてみれば単なる付属物である。主役でもなんでもないのである。考えてみたまえ。腹の調子が悪いとき、足を角にぶっつけたとき、どうか痛みを鎮めてください、治ってくださいと、あさましく、みっともなく、肉体に平伏泣訴さえするではないか!

 そのため、我々が崇高なものとして重宝してきた全てのものは、その実なんら特別でない、我々の嫌悪してやまない、動物的な、肉体からの慾求への貢ぎ物に過ぎなかったのだ。

 

 精神は、永劫、肉体の奴隷である。