水
空間とも地平ともつかないどこかに、凪いだ純水が満ちて居た。
それは見事な透明色で、塵埃はおろか、如何許りの細菌類さえ存在していないようである。
美しいその水は、コップのような形の地形の、縁のほんの手前までせり上がっており、息をふっと吹きかけると危なっかしく荒れた。
名状しがたい恍惚を感ずるほどの光景である。
ある時、一滴の墨汁が降った。
初めてのことであった。
抵抗のしようもなく、真っ黒な墨が小さく水面を踊らせ潜り込み、薄いハンカチーフを風に委ねるように色素が蠕動し、やがてそれと分からなくなった。
これは、夢であろうか。
見た目には、たった今汚されたとは到底分からぬほどに、相変わらず水は透明のままであった。
だが、確かに、水面は先ほどまでより隆起している。
こんなことが、その後何度か起きたのだが、だんだんとその間隔が狭まり、その時分には、墨はもはや身を解く春の氷柱よろしく滴っていた。
水もとうとう薄く色づいてしまい、何より、その水位が、表面張力の限界を迎えようとしていた。
ぱんぱんと張り詰め、緊張し、実に悲痛な様相を呈していた。
そして、ああ、またぽたり。
ついに、汚水が零れていった。
零れた水はコップの外側を舐め、足跡をずるずる引きずりながら、やがて最下層へ行きついた。
そこには、なにやら脱脂綿状のものが敷き詰められていた。
初雪の明け方の庭のような壮観な景色は、それによって一点の染みを作った。
もう、乾かせど、元のようには戻らないであろう。
そうしているうちに、もう一滴、零れてきた。
また墨が降ったのだ。
またその分、脱脂綿は汚された。
やがて、また一滴、また一滴と、回数が重なるごとに、水はさらに濃く染まっていき、さらに悪いことには、脱脂綿の水分含有量が飽和し、しゃびしゃびになっていったのである。
今では、かつての美しい無垢な光景は望むべくもない。
実は壁で囲まれた場所であったのか知らないが、下層部には足が全て浸かってしまうほど汚水がたまり、ぐずぐずに潤びた脱脂綿がだらしなく沈殿している。
墨はなおも絶え間なく降り続け、清浄であったコップにはもはや泥水のような液が氾濫していた。
もう、決して取り返しはつかない。
例えこの場所をぶち壊そうが、無かったことにはならないのである。
零れた汚水の水かさが増し、コップさえ飲み込み、墨の出所にまで到達する事があるとしたら、その時には、何かしら変化するであろうか。
ただ、傍観である。
H29.11.9