遊歩百景

書き物をします。

小説

沈潜

沈んでゆく。 胸がつまる。 手指が痺れる。 喉がこわばる。 私は、揺られている。 水泡が背をなぞる。 くすぐられるもどかしさに気が抜ける。 一つ大きな息を吐く。 肺の収縮を感じる。 私は、揺られている。 きっと、滑稽なんだ。 なにもぜんぶ、おかしいん…

だめ

私は、台無しにすることしかできない。 私は、自分のためにしか涙を出せない。 私は、裏切ることしかできない。 私は、もう何も考えられない。 私は、もう何もわからない。 私は、もう頑張れない。 私は、エゴイストだ。 私は、きっとだめだ。 もう、だめだ。

美徳

戦うことに、何の価値があろうか。 耐えることに、何の意義があろうか。 抗うことに、何の益があろうか。 それは、蛮勇である。 それは、妥協である。 それは、欺瞞である。

朝、朝。 私は朝に犯される。 鳥、車。 青い光に犯される。 目覚めの気配が、どれだけ怖いか。 清潔な匂いが、どれほど酷いか。 ねえ、あなた、知ってる? 私、自殺のことばかり考えるの。 明日が来ないようにと、いくらいくら祈っても、どうしてもやって来…

眠り

もう、何もしたくない。 明日なんていらない。 何も考えたくない。 悩みたくない。 苦しみたくない。 悲しみたくない。 痛がりたくない。 悶えたくない。 明日なんていらない。 いらない。 いらない。 いらない。 ただ安らいでいたい。 何も心配しないで、た…

明日

明日なんて、いつだって来てほしくなんかないのに。

当惑

今日、首を吊ろうとしてみた。案外と、怖くなかった。怖いには怖いが、正直やれそうだった。足場を確保したまま、ぐっと重心を下げたり、そのまま片足を外してみたりしたが、感触がむしろ心地よかった。そればかりか、そうしていると、かえって安心した。も…

肉慾讃歌

我々は、肉体への奉仕なしでは生存できない。肉体とは、(便宜上)我々の精神と対置される、動物の部分である。我々は、我々の肉体が動物であることを認識しながらも、動物的にふるまうことを厭う。それを、恥と感じたり、浅ましいと思ったりするのだ。されば…

先送り

私は、必ず自殺せねばならない。私自身の尊厳や、精神を守るためには、他になんらの手段も存在しないことは、嫌ほど理解している。 そのはずなのに、私は未だに生きて暮らしている。何故か。畢竟、恐怖である。 我々は、我々自身を、社会のみならず自然にさ…

哀訴

妾が今から毒呑んで死んでゆくのは、妾を無下にした貴方たち一人ひとりの責任なのよ。無関係な面なんて、しちゃあいけないわ。 妾、毒じゃなくて、貴方たちの見えない手に首しめられて、泡吹いて、息つっかえて死ぬんだわ。 せめて、妾の体温が引いていくの…

創作

作品を創っていくことは、それでもやはり幸福であり、その輪郭が、目鼻が、匂いが、漸々と現れ出でるその瞬間々々は、えもいえぬ美しいものだが、変幻自在なイメージがそうして具体的な実像を結ぶにつれて、同時に、朝靄の中遠巻きに見咎める美人が、その実…

未遂

死のうと思った。それ以外に、自らを救う術が、どうしても思い当たらなかったのだ。常に纏綿する諸要素の、その重みに対して、骨をミシミシ云わせて、筋肉を怒張させて、そうして汚い汗と唾液とを垂れ流し、睥睨する人々から嘲られ疎まれし続けるくらいなら…

切願

ただ我に、死ぬるに足る勇気を与え給へ。

狂人

かつて、私は狂人であった。人に好かれようなどという、不相応な妄念に取り憑かれ、七転八倒、その様は、あさましく、愚劣で、飢えた野良犬でさえも、眉を顰め唾棄するであろうほどのものであった。醜く笑い、おどけ、平身低頭した日々に、いったいいくらの…

治療

東京といえどこんなものかと、私はまたうんざりとした。 窮屈ながらも洒脱な吉祥寺の喧騒から、ひとつ、ふたつ程度隔たった場所にある、古ぼけたビルの4階の病院に、私は通っていた。 距離でいえば、華やいだ駅から大して離れてはいないはずだが、そこには、…

チエちゃん

チエちゃんは何だかその日、いつもと様子が違ったのです。 そして、ああ、もうきっと、昔と同じようにチエちゃんとお話しすることはできないと、私、そう感じているのです。 彼女は、変わりました。或いは、既に。 チエちゃんは、チエちゃんは、いいえ、この…

怠慢な日々を過ごしている。 不勉強にも磨きがかかり、反省も一過性、夢も一過性、目覚めれば昼、気がつけば夜。 こんな日々を過ごしてはいけないと、しかし根拠はないが、自分に言い聞かせ、そして結局、また同じように時間を過ごす。 今日は一度、まだ暗い…

残光の落し物

凜然とした空気は、淀みなく、先々まで貫くように見せる。 山々は雄大に展開し、まばらにちぎれる雲は、もはや白くはなく、紺色に落ちつき、そのすきまからは、さらにその奥に広がる虹色の空がのぞく。 この虹は、雨あがりに架かるものとは一味違い、十以上…

未来

今日で十七になった。 これまでの年月、それどころか昨日のことでさえ、白くもやがかかっているようで、本当はそれらは一切合切全く夢だと言われれば、納得してしまうかもしれない。 まだ、若い。 先日風邪をひいた。ほんの気のせいかもしれぬ症状が、刻々と…

過去の我曰く、恋は妥協。 今日の我曰く、恋は生の渇望。 君は、堕したと嘲り笑うだろうか。 だが、君、見給え。 見てくれが上等だろうが違おうが、女を侍らせ、顔のあらゆる筋肉を弛緩せしめたる、あの青年こそ、生の体現者そのものではないか。 今日は右手…

エロースの徒

私は疾うより、己への嫌悪も、阿諛も、怠惰も、全てそれと装った愛憐にすぎないことを、知っていた。 あの時分殴りたおした男も、あの時分抱いた女も、詰まるところ自己愛故であり、別に忿怒に駆られた訳でもなければ、愛情の熱に焼かれた訳でもない。 ただ…

恋慕

「あぁ、フられちゃった」 君は振り払うように声を出し、快活にのびをした。 日はすでに遠くの方で茜に燃え、真っ黒なカラスがくるりくるりと影を送っていた。 くぅ、と、詰まった声を漏らし、君は腕をおろした。 僕はただいまの声に瞬時に絆され、跪きたい…

疾苦

懶惰。倨傲。甘え。マゾヒズム。ナルシズム。焦意。諦念。優勝劣敗。哀願。無学。慚恚。憤悶。刻苦。阿諛。悔悟。欠如。拘泥。見栄。利己。醜悪。嫉妬。 いつか、安心したい。 H26.12.13

裁判

「ねえ、もう許しておやりよ」 油くさい声がきこえ、私は意識を取り戻した。 眼前ではユイが両手のひらを顔に押し当て、めそめそ震えていた。 その隣で、太った女が彼女の肩を撫でこちらを睨んでいる。 私は、全くの無罪であった。 ユイの不義密通を責める気…

空間とも地平ともつかないどこかに、凪いだ純水が満ちて居た。 それは見事な透明色で、塵埃はおろか、如何許りの細菌類さえ存在していないようである。 美しいその水は、コップのような形の地形の、縁のほんの手前までせり上がっており、息をふっと吹きかけ…