遊歩百景

書き物をします。

裁判

 「ねえ、もう許しておやりよ」

油くさい声がきこえ、私は意識を取り戻した。

眼前ではユイが両手のひらを顔に押し当て、めそめそ震えていた。

その隣で、太った女が彼女の肩を撫でこちらを睨んでいる。

私は、全くの無罪であった。

ユイの不義密通を責める気持ちもなければ、悲しくも、悔しくも、情けなくもなかった。

どだい、興味がないのである。

私はこの度の事件を受けて、作為的にも不作為的にも、何も行動してはいないし、何の感情を誘発された訳でもなかった。

別に、許すも許さぬもありはしないのである。

ただ、彼女は他に想い人ができ、その人と関係を持っただけのことだ。

敢えて言うなら、私は彼女の好きなようにさせてやりたかった。

それがきっとユイにとっても望ましいのであろうし、何より私にとって都合が良いのである。

どういう形にせよ、決断やなにやを求められる事が、大義でならない。

そもそも、ユイがなお私にこうして弁明を試みる意味がわからない。

黙って、出て行けばいいだけの話ではないか。

私は、決してそれを止めたりせず、そのままに受け入れる。

ただ、私は平穏でありたいのだ。

それなのに、私はこの場において発言を要求されている。

誤魔化しは許されない。

この太った裁判官に、それも判然とせぬ咎についての、申し開きをせねばならないのである。

 

 私は生来、人の気持ちを推し量る事が不得手であった。

果たして、なにを申し上げれば、拘束が解かれるのだろうか。

「とっくに、許しているのだよ。怒ってなどいないから安心したまえ。」

考え考え、そんな意味の言葉を吐いた。

刹那裁判官の鼻の穴がみるみる膨れ、瞳孔が開き、ユイはワッと声を上げいっそう泣いた。

どうやら何か間違えたらしい。

許せと言われて許したと言って、いったい何が不満なのであろうか。

「だから」

裁判官は再び口を開いた。

「この子は芯から反省しているんだよ」

案の定、依然判決は下らない。

場の緊張がいっそう高まり、いよいよ持って、私は被告人の様相を濃くした。

 

 その時、ユイが、半刻ぶりに、か細く言葉を発した。

「いいんだよ、もう。私は許されない事をした。当然の報いだよ」

裁判官はついに落涙し、ユイの肩を抱いた。

悲哀。憐憫。慰撫。眼前では白々しいやりとりが続く。

全体、何が報いなのだろうか。

果たして何者が彼女に懲罰を付し、その罪を糾弾しているというのだろうか。

好きにすればいいじゃないか。怒っていないのである。責めていないのである。

議会は混迷を極めたように思えたが、どうやらこの2人のうちには、揺るぎない了解があるらしい。

タバコも切れてしまった。珈琲もとうに飲み干した。

ちらと時計をみた。もう長いこと経っている。

私は思い切って、初めて能動的に、立ち上がり、部屋を出た。

ユイはまたしてもおいおいと嗚咽し、太った友人は大事そうに彼女を抱き抱え、

私はどうやら前科一犯、ということになった。

 

H29.9.2