遊歩百景

書き物をします。

老妻

 白状すると、希死念慮がこれほど悲しいものだとは、思わなかった。これほど遣る瀬無いものだとは、知らなかった。起伏の波はあるにせよ、幼少の頃からずっと持ち続けていた感覚であり、その状態が普通だと思っていたし、それがどういったものか知ってもいるつもりだった。

 しかしこの頃、ある種伴侶のように連れ添ってきたそれの表情が、違って見えてきている。より正確にいえば、斜陽がそれの顔を紅く照らしだし、見慣れた鼻の形や唇の陰影のみならず、点々と散る染みや深い皺をも、私の瞳にはじめて映じ、ああ、ここまで来てしまったのだなと、深く思わせるような、そんな感覚である。

 畢竟、時が迫っているのだ。余裕がもうないのだ。私は間もなく、敗者としてこの世を去らねばならないのだ。せめて尊厳を根こそぎ狼藉され尽くす前に、決然と別れるべきなのだ。

 しかし、確かに今は悲しく感じるものの、あらためて考えてみればやはり良い点ばかりではないか。肉体の美醜に動揺することもないし、懐の貧しさをいいことに誰かに使われることもないし、頭の出来不出来も問題にならないし、成功も失敗もない。今現在の一切の悩みから、逃れ去ることができるのだ。そうしたら、悪い夢を見ていたのだと、全て忘れて、雲散霧消できるではないか。主体がなければ、あらゆる苦悩は帰属できない。素晴らしいではないか。

 だから、悲しいことではないんだ。辛いことではないんだ。幸せなんだ。受け入れるべきなんだ。

 序に社会も、どちらかと言えばそれを望んでいるだろうし。