遊歩百景

書き物をします。

狂人

 かつて、私は狂人であった。人に好かれようなどという、不相応な妄念に取り憑かれ、七転八倒、その様は、あさましく、愚劣で、飢えた野良犬でさえも、眉を顰め唾棄するであろうほどのものであった。醜く笑い、おどけ、平身低頭した日々に、いったいいくらの価値があったろうか。買い叩かれた末に受領したのは、ただ恥と悔恨ばかりではないか。舌を出して、あざとくして、馬鹿だねえ。妙な欲さえなければ、つかずに済んだ汚れを、いつまでもいつまでも未練がましく唾をつけて擦ったりして、かえって指の皮の方が剥けたりして、それを庇いながら痩せたランプを頼って薬箱あさって、いつ買ったか知れないような絆創膏拾い上げて、左手で覚束なくはっつけて、見苦しいったらありゃしない。

 なぜ、求めてしまったのだろう。なぜ、気づけなかったのだろう。最初から、捨てにかかればよかったものを、なぜ、欲したのだろう。私は、確かに若かったし、部分部分を見ればなんだかそれまでは上手くいっていたような感覚もないではなかったが、それならそれで満足できなかったのか。強欲は、身を滅ぼす。屈辱や慚愧に塗れた過去は、いまさらどうにもならない。見たまえ、いまや、貴重な、悪くなかったはずの部分まで、飛沫を受け、目を覆うような有様ではないか。

 まず、私は追従をやめなければならない。媚びてはならない。煮湯を飲まされ、震えるほど立腹した時でさえ、いざ対峙した相手の顔に、ちらとでも、悲哀の影が見えたとたん、あらっとなり、まあひとつお茶でも飲みに行きませんか、珈琲はお嫌いじゃありませんかなどと、例の平身低頭が始まり、下品な冗談など云い、卑しくにたにた笑い、額には汗、結局どっちが悪いのか分からない、これでは、いけない。

 殺せ!怨嗟を込めて研いだナイフを懐中し、御託が開陳されるより前に、心臓めがけてえいやっと刺しなさい。殺せ!殺せ!そうでなければ、私は永久に狂人である。狂うか、殺すか、どちらがいいね。え?恩師も、親類も、知人も、旧友も、野次馬も、殺せ。笑うな!おどけるな!恨んで、殺せ。憎んで、殺せ。刺せ、刺せ、刺せ。私は、今以上に汚れたくないのだ。