遊歩百景

書き物をします。

チエちゃん

 チエちゃんは何だかその日、いつもと様子が違ったのです。

そして、ああ、もうきっと、昔と同じようにチエちゃんとお話しすることはできないと、私、そう感じているのです。

彼女は、変わりました。或いは、既に。

チエちゃんは、チエちゃんは、いいえ、この先は、後にお話しいたします。

 

 その日、放課の時間になり、私はそれまでと同じように、チエちゃんのところへ行きました。

チエちゃんというのは、私のお友達で、非常に勉学に秀でた、大人しい女の子でしたが、

私はそのチエちゃんと、毎日一緒にお家へ帰っていたのです。

チエちゃんのお家は、3丁目の外れの方にありましたが、私はわざわざ遠回りして、少しでも長くおしゃべりをしていました。

ほんとうに、いろいろなことを話しました。

昨日の番組のこと、お母さんのお小言、そして、あまり褒められた事ではありませんが、嫌われ者の、太った新山先生の陰口まで、こっそりと云い合いました。

彼女は実に聡明で、物識りで、私が何気なく云ったことに、2つも3つも付け足しをしてお返事するのが常でした。

私は、チエちゃんが大好きで、またたいへん尊敬していました。

 

 ところで、その日のチエちゃんのおかしかったというのは、こういう訳でした。

放課の時間になると、私は決まってチエちゃんの机によっていって、彼女のお名前を呼ぶのです。

そうすると、チエちゃんは「はぁい」と、可愛らしい声でお返事をくれました。

私はその声を聴くたび、ほっと疲れが抜けるのを感じ、またその後のおしゃべりへの期待に胸をどきどきさせたものです。

 しかしその日、チエちゃんは机にいませんでした。

私の机は彼女の席から割合とおいところにあったので、私が知らない間に、先生になにか言付けをされて、入れ違いになったのか知らんと思い、しばらくチエちゃんの机の周りをぐるぐるしました。

チエちゃんは優等生でしたから、先生の信用も大変なもので、頼まれごとをされるのはさして珍しくもなかったのです。 

でも、しかし、今日先生は入り用とかで、いつもからは考えられないほど早々に終礼を終えたのです。

そんな余裕があったでしょうか。

それに、もし、どうしてものことで、チエちゃんに頼みごとをしたとして、慇懃な彼女が、私に何も言わずにいなくなってしまった事を鑑みると、やはりおかしかったのです。

 

 私が彼女を待っている間、クラスの生徒たちは順々に教室から出て行きました。

噂好きなケイちゃんがトモエちゃんと闊達に話しながら帰り(そのケイちゃんの妙に好奇な目を見た気がして、何だか変にどきりとしました)、ケンジくんが慌てて体操着に着替えて部活動に向かい、そして、にきび面の山田が、脂で鼻の頭をテラテラさせつつ、粛然と去っていきました。

山田がこれほど早く教室から失せたことは、何とも幸いでした。

彼は普段は癪に触るダミ声で以って、汗臭い仲間たちと大声で下品な会話をするので、私は頗る閉口していたのです。

質のわるいことに、女子生徒が近くにいるときほど、得意になって声を張り上げるのです。 

後になって、あの女は俺の話を盗み聞いて楽しんでいたなどと豪語するのです。

その日は、特に心細い思いをしていましたから、きっとそんな恥辱には耐えられなかったでしょう。

 

 気づけば、教室には、私と、23人しか残っていませんでした。

私は、いっそうキュンと心細くなって、ハナちゃんに何やらどうでも良いことを聞いて、少し困らせてしまいました。

廊下の喧騒と対照的な静けさは、胸をちくちくさせました。

思わず、むらむらと、チエちゃんに怒りを覚えてしまいました。

不安を紛らわすために、そんな気持ちを起こすのはよくないと、必死に呑み下そうとしていました。

誤魔化しに、お腹がすいたねぇなどと呟いてみましたが、誰からのお返事もありませんでした。

 

 程なくして、ようよう、チエちゃんは戻ってきました。

あれだけ募っていた憤りは、冗談みたいにすっと消え、怜悧な目元に非常な心強さを感じました。

「どこにいっていたの?」

すぐに、聞いてしまいました。

「なんでもないのよ、鳥渡お手洗い」

優しく、彼女はこたえました。

それ以上はお互い何も云うことはなく、下駄箱に向かいました。恥ずかしかったのです。

外に出ると、ぽっこりと浮かんだ夕日が、お空に赤い絵の具を広げていました。

淡く照らされたチエちゃんはやはり綺麗で、可愛いくて、私は、盗むように彼女を見つめました。

もう、恐る理由はありませんでした。

 

 しかし、2丁目の、最後から二番目の曲がり角に来たときです。

自転車を手で転がしながら、にきび面の山田が、のっと、現れました。

私は、面喰らって、思わず、チエちゃんの服の裾を摘んでしまいました。

山田は、妙ににやにや笑って、こちらに近寄ってきました。

偶然、などと耳にしました。

怖くなりました。怪物から、逃げなくては!

しかし、チエちゃんは、はたと彼と目を合わせ、そして、頬を染めて、ぷいとうつむきました。

私には、それでじゅうぶんすぎるくらいでした。

遮二無二、駆けだしました。

 

 異様でした。額縁の世界は、犯され、汚され、辱められました。

不義、裏切り、色んな酷い言葉が浮かびました。

不似合いな装飾が、嫌らしくて口惜しくて、気づいたら泣いていました。

額縁の世界なんて云いましたが、そんなものは、最初からなかったのです。

生きてあるとは、なんて残酷なことでしょうか。

時間とは、なんて尊大なものでしょうか。

全て、動くのです。止まらず、休まず、くっつき、はなれて、それでいて、恍惚なんて幻惑をみせるのです。

ああ、私は、永劫、チエちゃんと以前のように接することはできますまい。

彼女は、人だ。私も、人だ。みんな、可愛そうなのだ。

でもその事が口惜しくて、口惜しくて、口惜しくてーーー

 

 しかし、最後にひとつ、申し添えておかねばなりません。

あの時みたチエちゃんは、猥褻で、野卑で、しかし、何にもまして綺麗でした。

もう、何もかきません。

 

H29.11.9